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日本図書館研究会特別研究例会(第330回)報告


日 時:2017年6月4日(日)10:30〜12:00
会 場:同志社大学新町キャンパス臨光館R205教室
発表者:石塚栄二氏(帝塚山大学名誉教授)
テーマ:三人の森さんを振り返る
参加者:52名

発表概要:
 図書館法制定の1950年に文部省図書館職員養成所(第1期生)を卒業し,図書館員となった。
その後の歩みの中で,直接接したもり・きよし(NDC編纂者)さん,森耕一(元京都大学・光華女子
大学教授)さん,森博(元東京都立日比谷図書館整理課長,JLA・中小公共図書館運営基準委員会委
員・日本の参考図書編集委員)さんの三人を通して戦後の図書館史の一端を振り返る。
発表内容:
 テーマを決めるに当たって,たまたま東京の小川徹(法政大学文学部教員司書資格担当)さんから,
『人物でたどる日本の図書館の歴史』(小川徹・奥泉和久・小黒浩司著 青弓社 2016)が送ら]
れ,この中に奥泉さんの森博さんを取り上げた論考があったので,昔を振り返り交流のあった三人の
森さんのことを話題にしようと決めた。
 三人の森さんとは,もり・きよしさん,森耕一さん,森博さんのことである。この三人の間に共通
した関わりがあったわけではなく,同姓であるに過ぎない。ただ,お三方とも図書館に一生を捧げた
図書館界としては忘れてはならない方々であり,私がたまたまお三方といささかの交流をもっていた
ということで,その思い出を話すこととした。
 「もり・きよし年譜」(『司書55年の思い出』もり・きよし著 もり・きよし氏を偲ぶ会 19
91),「森耕一年譜」(『公立図書館の思想と実践』森耕一追悼事業会 1993),「森博略年
譜」(『人物でたどる日本の図書館』)からわかるように,もり・きよしさんは84歳(1990)
で,森耕一さんは69歳(1992)で,森博さんは48歳(1971)で,それぞれ亡くなってい
る。私にとっては三人とも,日頃親しみのある万葉集の表現を借りれば,「過ぎにし人」である。

1.もり・きよしさんについて
 1990年の秋にもり・きよしさんが亡くなったが,その翌年の5月末,もり・きよしさんを偲ぶ
会が行われた。国立国会図書館,青葉短大(最後の勤務先),JLA関係者など100人ほどの方々が参
会したが,NDC誕生の地である関西からの参会者は,渡辺信一(元同志社大学)さんと私の二人だけだ
った。当日,自伝である『司書55年の思い出』が参加者に配布された。これと合わせて配布された
記念品は,うさぎをかたどった電動の机上消しゴムくず吸い取り器であり,昔から文房具が好きだった
もりさんらしいと受け止めた。
 私が図書館職員養成所に在学していた頃は,もり・きよしさんは養成所隣の国立国会図書館支部上野
図書館に勤務していた。もり・きよしさんは当時,上野図書館の職員組合の役員をしており,もりさん
から声を掛けられ,神田神保町であった図書館法成立促進の街頭署名活動に私も参加した。
 分類法のテキストにはNDCが使われていたが,もり・きよしさんには教わらなかった。使ったテキスト
は,宝塚文芸図書館出版の縮刷8版,1942年刊行の5版の複製だった。新訂6版の刊行は,195
0年7月だった。もり・きよしさんから分類法について話を聞いたのは,1950年7月に刊行された
NDC新訂6版の説明会が大阪で開催されたときが最初だと思う。
 私が和歌山県立図書館に就職後,上京するたびに,上野図書館の裏にあったJLAの事務所に立ち寄るよ
うになり,そこでよくお目にかかった。もりさんは当時,図書館雑誌の編集などに関わっていた。生来
文章を書くのがスピーディで,JLAはたいへん重宝していたと聞いている。NDCの著作権が間宮不二雄さ
んからJLAに移り,NDCの改定作業がJLA分類委員会の仕事になったとき,もりさんはその中心メンバーと
して,引き続きNDCに関わることとなった。その一方,NDCとは別の体系の分類表に関心を持ち,その構
想を公表したい希望を持っていたが,加藤宗厚(元国立図書館長)先生に止められていた。このことは
石山洋(元国立国会図書館)君が『短期大学図書館研究』12号(1992)に書いている。1948
年の国立国会図書館の分類表採用についての懇談会では,和書にはNDCとは異なる十進分類表を新たに作
るべき,漢籍には四庫分類表を,洋書にはDDCをとの三本立ての採用を,との意見を述べたと記録されて
いる。NDCは,初版のタイトルに「和漢洋書共用分類表及び索引」とあるとおり,当初から和漢洋共用を
目標として創案されたものであり,後に意見を変えたことになる。
 もりさんは,1931年に鳥取で三年間ほど図書館の現場で勤務した後,神戸市立図書館に移って主に
同館の分類作業に携わり,1938年に上海へ転勤して1946年に帰国し,上野図書館が新しく受け入
れた図書からNDCを採用するようになったとき,その分類作業に携わった。それ以後は主に分類作業に関
わったようである。国立国会図書館での最後の頃は,「明治期刊行図書目録」の編纂という書誌作りを担
当していた。年譜からわかるように,若い頃から病気がちで決して健康とは言えない体だったが,お三方
の中では最も長命だった。比較的痩身で,よくタバコをくわえて歩いている姿を見かけた。1980年代
のいつ頃だったか,京都でお目にかかったのが最後になった。NDCと共に生涯を過ごされたと言ってよい
と思う。ただ,NDCがあまりにも実用化されて普及してしまったことから,一面ではNDCに縛られていたと
いうことも知っておいてほしい。

2.森耕一さんについて
 森耕一さんと森博さんは,同じ1923年の生まれである。森耕一さんについては皆さんよくご承知の
ことであり,業績などは申し上げる必要はないが,私との関わりについて,少し申し上げることにする。
 私が養成所在学中に,加藤宗厚先生から,鹿児島で新しい分類表を創案している人がいると伺ったこと
がある。それが「森耕一業績目録」(『公立図書館の思想と実践』)の最初にある展開分類法のことかと
思う。
 私が和歌山県立図書館に勤めた1950年の翌年,森さんが和歌山県立医大(年譜によれば県立理科短
大,これは医大専門課程への進学課程)に赴任し,県立図書館にいた私を訪ねて来た。当時和歌山市内に
あった県立高校の学校司書の方々と勉強会を開こうとしていたときだったので,それにも参加いただいた。
そのときの一つの記録が,『図書館界』4巻2号(1950.7)に載っている「図書記号について」と
いう和歌山図書館研究会の報告である。報告のまとめは森さんがしたと思う。
 その翌年から日図研に地区研究グループがつくられ,大阪地区研究グループが発足したので,これに私
も参加するようになり,森さんと顔を合わせる機会が増えていった。この大阪地区研究グループの論議の
なかで,例の「標目と記述の分離」という考えが熟していった。いわゆる「記述独立方式」であるが,こ
の考えが現在のコンピュータ目録を成立させる基盤となったと言ってよい。
 また,大阪地区研究グループと並立して目録排列法研究グループが成立し,これが発展して日図研に
「目録編成規則委員会」が成立し,1961年に『目録編成規則』(日本図書館研究会目録編成規則委員
会編,日本図書館研究会,1961)の刊行となった。目録排列法研究グループの成立以降は,森耕一さ
んを中心として推進されたと言ってよい。『目録編成規則』はいうまでもなくカード目録を前提としたも
のだから,コンピュータ目録時代の今となっては,歴史上の遺物かもしれない。この編集に当たった仲間
は,藤田善一さんが亡くなり,片山良爾,益野正美両氏が図書館を離れたため,まだ図書館に関わりを持
っているのは私ひとりとなった。
 1961年の大阪市立中央図書館の開館に伴い,私が7月から,森耕一さんは9月からだったと思うが,
同じ職場で上司と部下の関係になったが,私は1976年4月から森耕一さんの紹介で帝塚山大学に,森
耕一さんも京大に,それぞれ移った。しかし,1974年のJLAの図書館の自由に関する調査委員会の発足
に伴い,またその活動を共にすることが続いた。それからのことは,塩見昇(大阪教育大学名誉教授)君
がよく知っていると思う。
 森耕一さんの偲ぶ会があったときに申し上げたことの繰り返しになるが,森耕一さんは,1950年代の
分類法研究,1950年代後半からの目録法研究,1966年の『図書館の話』(森耕一著,至誠堂,19
66)に始まる公立図書館の歴史とその研究と,研究対象を移してきた。あるとき,森耕一さんから「一つ
の時期には研究対象を一つに絞りなさい」と厳しく叱られたことがあった。これは森耕一さんの研究姿勢か
らの注意だったと受け止めた。分類法はそれが実用に供されなければ意味がない,目録法はもう論じ尽くさ
れたと言われたことがあったが,これも同氏の実践的理論家としての一貫した姿勢からの発言と受け止める
べきである。理論を理論として追求し続けることは,技術のナルシシズムに陥ることを警戒してのことだっ
たのであろうか。同氏が歴史に関心を持つのは,『図書館の話』を刊行された1966年以後のことと私は
考えている。
 森耕一さんは,和歌山時代から胃薬を常用していた。それなのにお酒が好きで,あるとき東京のホテルで
一緒になったとき,朝食のときにビールを注文し,これがないと食事が喉を通らないと言われびっくりした
ことがある。もう少し健康に注意していればもっと長生きできたのにと思う。69歳は早過ぎるし,図書館
界にとっても大きな損失である。

3.森博さんについて
 森博さんについては,ご存知ない方も多いと思うが,最初に申し上げた『人物でたどる日本の図書館の歴
史』に奥泉和久(法政大学兼任講師)さんが「森博,図書館実践とその思想」を発表している。また,『図
書館雑誌』65巻11号(1971.11)が森博さんの追悼号となっている。
 私が森博さんと知り合ったのは,1961年2月のことで,皆さんご存知の「中小レポート」の実地調査
で高砂市立図書館へ伺ったときである。そのときの調査委員長が森博さんだった。このときのメンバーなど
は,『図書館文化史研究』22号(2005)に報告した。三日間の調査期間を共にしたが,初日から,分
担した調査項目の報告会が夕食後に行われ,各委員の報告に具体的な調査漏れがないか,推定ではなく実際
に確認したか,厳しくチェックされた。実態を正確に把握することの大切さを調査員に示し,図書館をめぐ
る地域状況も含めて捉えよう,という森博さんの姿勢に大変感銘を受けた。最後の日,前川恒雄君に「東京
には凄い図書館人がいるねえ」と感想を口にしたことを,前川恒雄君が『中小都市における公共図書館の運
営の成立とその時代』(オーラルヒストリー研究会編,日本図書館協会,1998)のインタビューの中に
記録している。
 森博さんは,この高砂調査の後の1961年5月,「中小レポート」の委員を中途辞任するが,その辞任
の理由について論じたことがあり,それが奥泉和久さんの論文にも引用されている。しかし,1963年3
月に『中小都市における公共図書館の運営』(中小公共図書館運営基準委員会編,日本図書館協会)が刊行
された後は,この報告書の普及に熱心に取り組んでいた。森博さんが当時在職していた大田区立洗足池図書
館の優れた活動については,それ以前から耳にしてはいたものの,それと森博さんが結びついていなかった。
 私は,同年7月に和歌山県立図書館から大阪市立図書館へ転職したばかりだったので,高砂調査の後は,
館外の集会などに参加することを控えていたが,1963年秋に全国図書館大会が岡山で開かれたとき,森
博さんにお会いし,「中小レポート」の普及に協力しなければだめじゃないかと声を掛けられた。これは,
その年の6月に箱根で開かれた「中小レポート」の研究会に参加するよう案内を受けていたのを,先ほどの
事情で欠席したことを叱られたのだと受け止めている。
 その後,森博さんは職場を転々とするが,1964年に,当時日野市長であった有山ッさんに請われ,同
市の社会教育委員会の専門委員に就任し,日野市立図書館の設立計画に携わることとなった。公共図書館の
活動に革命的変化をもたらした日野市立図書館のサービスは,森博さんの立案によるところが大きいと言っ
てよい。日野市立図書館の自動車文庫ひまわり号が運行を開始したのは1965年9月のことである。その
ことは,前川恒雄君が『図書館雑誌』の追悼文に書いている。
 1970年12月,当時の杉捷夫館長からの強い要請を受けて東京都立日比谷図書館整理課長に就任し,
新設予定の都立中央図書館の計画立案に取り組んだ。職員を国内の主要図書館に派遣し,必要な情報を収集
したが,その一環として,私が勤務していた大阪市立中央図書館にも職員が来館し,意見を求めた。森博さ
んからも事前に連絡を受けた。後日,その調査報告のまとめを頂戴したが,そのときにはすでに森さんは他
界していた。亡くなったのは翌年6月13日のことで,在職7月あまりだった。杉館長は,「私があまりに
森さんを頼りにしすぎたことが死を早めたのではあるまいか。森さん許してください。」とその悲しみを述
べている。病因はガンであったと伝えられているので,本人の不養生,不摂生のせいとばかりはいえないが,
体調不良を訴えながらも最後まで仕事に取り組んだことが,北村泰子さんの追悼文に明らかにされている。
 森博さんは,東京都立中央図書館の資料整理構想の中で件名目録を重視し,大田区立洗足池図書館でも件
名目録を整備していたが,当時のBSHでは不十分なので,書名中に使われている用語を使ったキャッチワード
目録のアイデアを持っていたことが,北村泰子さんの文章に触れられている。奥泉和久さんの論文に引用さ
れている福嶋礼子(元気賀町立図書館)さんの言葉のように,森博さんのアイデアマンの片鱗が窺える。
 森博さんは,大田区立図書館に在職中,レファレンスサービスの拡大強化に取り組み,そのツール作りに
努力した。JLA公共図書館部会に参考事務分科会が成立したのは1958年のこと,森博さんの呼びかけで
東京都公立図書館参考事務連絡会が発足したのはその翌年1959年であった。志智嘉九郎(元神戸市立図
書館長)さんの主張で「参考事務規程」というレファレンスのシステムが公表されたのが1961年,レフ
ァレンスのツールである『日本の参考図書』が国際文化会館から刊行されたのが1962年で,森博さんは
この『日本の参考図書』の編集に当初から積極的に関わっていた。このことは,小田泰正さんが『図書館雑
誌』の追悼文に記している。そうしたレファレンスサービスの分野での業績も忘れてはならない。森博さん
は,東京高師(現在の筑波大学の前身)の出身で,図書・文献には強い関心を持ち続けていたと考えられる。
一時,ミシガン大学で,同大学所蔵の日本地方資料の書誌作成に従事されたとのことであるが,これもそう
した関心の現れであるだろう。レファレンスサービスの普及・充実には,参考図書の整備が欠かせないと考
えていた。
 森博さんが図書館に関わったのは,静岡県気賀町(現在の浜松市北区細江町気賀)の町立図書館(現在の
浜松市立細江図書館)の設立から始まる。その頃の活動ぶりは,奥泉和久さんの労作に付された,福嶋礼子
さんの記録に鮮やかである。司書資格は慶応大で開催された図書館専門職員指導者講習会で取得された,と
年譜にある。ここで,清水正三(元中央区立京橋図書館長)さんと知り合ったというから,静岡時代から東
京の図書館に縁があったと言えるのではないか。1951年の関東地区ワークショップで秋岡梧郎(元日比
谷図書館)氏に出会ったのが東京での活動のきっかけであるとされている。大田区立図書館に勤務すること
になったのは,大田区の図書館計画の顧問として計画推進の中心になっていた秋岡梧郎氏の強い招請による
ものである。だから人事もご自身の意向を通すことができたのだろう。森博さんは,秋岡さんのメガネに適
った人物と目されたのである。奥泉和久さんは,森博さんの図書館思想の根元は,現実の調査による実態の
把握から実践の方向,施策を見つけ出すという姿勢を貫いたということだと述べている。この姿勢が秋岡さ
んに受け止められたのだろう。
 私の森博さんとの交流はごく限られた短い期間に過ぎないが,森博さんから受けた印象は大変感銘的で,
同氏の図書館界での多面的な優れた活動が,同氏の若くしての逝去によって断ち切られたことが惜しまれる
ので,ここで紹介することにした次第である。
 私のように馬齢を重ねるのがよいのか,森耕一さん,森博さんのように図書館界に大きな遺産を残して早
く立ち去るのがよいのか,皆さんそれぞれの考えがあると思うが,どうだろうか。

参考文献
奥泉和久(オーラルヒストリー研究グループ)「森博図書館実践とその思想;静岡県気賀町立図書館時代の
活動を中心に」『図書館界』63巻2号,2011.7,p.186―195.

(この報告は,当日の講演記録および発表原稿をもとに作成し,補記したものである。)
                                                         (文責:中村恵信 神戸松蔭女子学院大学)